关于即将消失的人类翻译

原文标题:《もうすぐ消滅するという人間の翻訳について》

原文地址:https://note.com/aki0309/n/n1f05cb496913

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平野暁人

2025年1月1日 11:00

ひとつの翻訳が、終わった。

一个翻译,结束了。

1本の翻訳原稿を仕上げた、わけではない。
この世界に存在していた翻訳のひとつが
いま終焉を迎えたのだ。

并非是完成了一份翻译稿件。
而是这世上存在的某种翻译
如今迎来了终结。

2024年末現在、僕の手元にきている来年の依頼は0件。
2025年の収入見込みも畢竟、0円ということになる。

截至2024年末,我手头明年的委托为0件。
2025年的预期收入终究也会是0日元。

あくまでもひとつの翻訳の話である。
つまりは翻訳のひとつの話である。
関係ないと思うならこの先を読まなくてもいい。
自分の知る現実と違うならこの先を信じなくてもいい。

这仅仅是关于一种翻译的故事。
也就是说,这是翻译中的一个故事。
如果觉得与己无关,不必继续往下读。
如果与自己所知的现实不符,不必相信接下来的内容。

人間の数だけ人間があり
現実の数だけ現実がある。
そのような場所を
あるいはそのとらえ難さをこそ
人は「世界」と呼ぶのだから。

有多少人就有多少种人性
有多少现实就有多少种实相。
正是这样的所在
或者说正是这种难以捉摸之处
人们才称之为"世界"。

そうしてその「世界」の中で
ひとつの翻訳が終わった。
じつに翻訳のひとつとして
文字通り終わってしまった。

而在这"世界"之中
一种翻译结束了。
确实是作为翻译的一种
字面意义上地结束了。

もっとも、収入の見込みが完全に断たれた経験はこれが初めてではない。

当然,这并非是第一次经历收入来源完全断绝。

わずか数ヶ月前まで遥かな対岸でちらちらと燃えていたはずの疫禍がその存外長い舌を露わにして瞬く間に欧米を舐めつくし、海外アーティストの来日プロジェクトも日本人アーティストの海外渡航プロジェクトも等しく灰燼に帰してのち、舞台芸術を主たる活動の場としてきた僕のスケジュールがあますところのない空隙に塗り替えられたのはまだほんの数年前のことだ。

就在几个月前,原本还在遥远彼岸若隐若现燃烧的疫情灾祸突然露出其意外漫长的舌头,转眼间便舔舐尽了欧美,无论是海外艺术家来日项目还是日本艺术家的海外访问项目都同样化为灰烬。而后,以舞台艺术为主要活动场所的我的日程表,被完全的空白所取代,这不过是几年前的事。

あまりの惨状に却って気が抜けてしまい
「向こう半年の主要な収入源が完全に断たれました」
と端的にtweetしたところバズを起こして知らない方々から励まされたり
(日本にはこんなにも心優しい人がいるのだな、と知って驚いた)、
「芸術かなんかしらんが日ごろ好きなことやって偉そうにしてる報いだ」
と罵倒されたり(日本にはこんなにも芸術を忌み嫌う人がいるのだな、と知っていたので驚かなかった)、あげく新聞社の取材を受けてインタビュー記事が掲載されたり。
あの時の虚な空気は心身の隅々まで行き渡ったまま、現在も吐き出されきることはない。僕が頭の中の真っ白な手帳をパラパラとめくりながら仰臥するのはだから、じつに人生で2度目ということになる。

面对如此惨状反而失去了紧张感
当我简单地发推文说"未来半年的主要收入来源已完全断绝"时,
引发了热议,收到了陌生人的鼓励
(惊讶地发现日本竟有这么多善良的人),
也被人辱骂说"不知什么艺术,平时做着自己喜欢的事还装模作样,这是报应"
(对日本有这么多厌恶艺术的人并不感到惊讶,因为早就知道),最后甚至接受了报社采访,刊登了专访文章。
那时的虚无感充斥着身心的每个角落,至今仍未能完全消散。因此,我躺在那里翻动着脑海中空白一片的记事本,这已是人生中的第二次了。

だが絶望の度合いは違う。
はっきりと違う。
今回の方が、格段にふかい。

但绝望的程度是不同的。
明显不同。
这一次,要深刻得多。

むろん疫禍に希望があったわけではない。
じりじりと延期に延期を重ねてきたプロジェクトがそこかしこで中止決定の断末魔を上げ、力尽き斃れてゆく人々の噂は途切れることがなく、補償を求めて声を上げれば「芸術は特別だとでも思っているのか」と謗りを浴び、
「明けない夜はありません!」という文化庁長官の激励文が曙光に照らされた屍の山を暗示する中でいつとも知れぬ再開を待ち続けた日々に希望などあったはずがない。

当然,疫情灾难中也并非存在着希望。
一个接一个被反复推迟的项目在各处发出临终前的哀鸣宣布取消,精疲力竭的人们的传闻不绝于耳,一旦为寻求补偿而发声就会遭到"难道你以为艺术很特别吗"的诽谤,
文化厅长官"黑夜终将过去!"的激励文字在暗示着被晨光照亮的尸山中,在那不知何时才能重启的等待岁月里,怎么可能存在希望。

それでも、いまこの瞬間
白々としたページの向こう側で
ただ絶望の色合いだけがいっそうくきやかだ。
ひとえにこの状況が不可逆であるからに他ならない。
「これ」は終わらない。
そうしてひとつの翻訳が、たしかに終わったのである。

然而,此时此刻
在惨白的页面彼端
唯有绝望的色彩愈发鲜明。
这无非是因为这种状况是不可逆的。
"这个"不会结束。
就这样,一种翻译,确实结束了。

あなたが売れていないだけでは、と指摘する向きもあるだろう。
個人の零落をもって「翻訳の終わり」とはなんたる厚顔、
おまえはどの立場から翻訳を語るのかとお叱りを受けるかもしれない。
そのいずれも否定する気はない。
事実だからではない。
冬空を仰ぐ砂漠の真ん中で裸のまま議論に興ずる気になれないだけだ。
それほどまでに圧倒的な危機の話を、いまからする。

或许有人会指出,这不过是你个人不受欢迎罢了。
以个人的衰落来谈论"翻译的终结"是何等厚颜无耻,
你究竟是以什么立场来谈论翻译的,也许会受到这样的指责。
我并不想否认这些。
不是因为这是事实。
只是在仰望着冬日天空的沙漠中央,赤身裸体的我无心于争辩。
因为我即将讲述的,是一个如此压倒性的危机故事。

ひとつの翻訳の終わりに先立ち、まずひとつの通貨が終わった。
つまり、円が終わった。

在一种翻译的终结之前,首先是一种货币的终结。
也就是说,日元终结了。

2024年7月11日、1€は約175円を記録。
以降、現在に至るまで160円強を維持している。
ユーロ導入の年である1999年7月のレートは1€約124円だった。
フランスで現金通貨としての流通が始まった2002年には約116円だった。
バブル以降30年の不況で減らされ続ける予算と戦っていたところへ疫禍で未曾有の深傷を負い、回復もままならぬうちに始まった東欧の戦争で航空券から食料品に至るまでの止まらない物価高に追い討ちをかけられた挙句「インバウンド需要」なる呪文が国の貧困化を観光依存で糊塗する影で暴騰を続ける滞在費を前に茫然と立ちすくむ舞台芸術界に海外、なかんずく欧州との交流を続ける体力などもはや残っているはずもなかった。

2024年7月11日,1欧元兑换约175日元。
此后直至现在,一直维持在160日元以上。
在欧元引入的1999年7月,汇率是1欧元约124日元。
在法国开始流通欧元现钞的2002年,约为116日元。
泡沫经济之后的30年里,一直在与不断缩减的预算作斗争,又在疫情中遭受了空前的重创,还未及恢复,东欧战争就爆发了,从机票到食品的物价无休止地上涨,雪上加霜的是"入境旅游需求"这一咒语在用旅游依赖来掩饰国家的贫困化的阴影下,住宿费用持续暴涨,面对这一切,舞台艺术界茫然无措,已经没有继续维持与海外,尤其是欧洲交流的体力了。

高い。
すべてが高い。
高すぎる。

太贵了。
一切都太贵了。
贵得离谱。

かくして日本中の国際演劇祭から欧州の作品が消えた。
日本中の劇場の年間ラインナップから欧州のアーティストが消えた。

于是,欧洲作品从日本各地的国际戏剧节上消失了。
欧洲艺术家从日本各地剧场的年度演出阵容中消失了。

むろんゼロになったというわけではない。
かろうじて呼べる規模の小品や個人で来日するアーティストの講演、展示、ワークショップなど優れた企画を精力的に打ち出す場所も、人も、たしかに存在する。

当然,并非完全归零。
仍有一些场所和人在积极推出优秀的企划,比如规模刚好能够负担的小型作品,或是个人来日的艺术家的讲座、展览、工作坊等。

けれど海外から劇団を丸ごと招聘したり、外国人演出家を招いて長期にわたり滞在制作を行うような大掛かりなプロジェクトは激減した。
そうしてそれは、すくなくとも僕のように戯曲の翻訳や字幕制作、アーティストの通訳といった業務を専門に手がける人間ひとりを干上がらせるには十分すぎる減り方だった。

但是,从海外邀请整个剧团,或是邀请外国导演进行长期驻地创作这样的大型项目却急剧减少。
而这种减少的程度,至少对于像我这样专门从事剧本翻译、字幕制作、艺术家口译等工作的人来说,足以让一个人陷入困境。

舞台の世界で働いていると、久しぶりに会った人からよく
「いまはなにやってるの?」と尋ねられる。
一部の商業演劇とオペラを除いて薄給だから
絶えず数をこなしていなければ食えないという業界の事情もある。
時候の挨拶にも等しいその質問が、いつの頃からか苦痛になった。

在舞台界工作时,经常会被久未见面的人问道
"现在在做什么呢?"
除了部分商业演出和歌剧外,薪资都很微薄
这个行业如果不不断接活就无法维生。
这个如同寒暄般的问候,不知从何时起变得令人痛苦。

「ひらのさん、いまはなにしてるの?」
「あいかわらず忙しいんでしょう?」

"平野先生,现在在做什么呢?"
"还是一如既往地忙吧?"

努めてシンプルに
「ひまです。仕事ないから」
と答えても
「またまた〜」「絶対うそ」
と笑われる。

即便我刻意简单地回答
"很闲,因为没有工作"
却总会被
"哎呀,开玩笑吧"、"绝对是骗人的"
这样带着笑意打发。

仕方なくこう続ける。

无奈之下,我只好这样接着说。

「あのね、じゃあ逆にききますけど、おたくの劇場で最近なにか海外もの呼びました?」

"那个啊,我反过来问你,你们剧场最近邀请过什么海外作品吗?"

(はっ)という顔をする人。
「……そうですよね、すみません」と謝ってくれる人。

有人露出恍然大悟的表情。
有人说"……是啊,对不起"道着歉。

謝ることなどひとつもない。
経済も経営もからっきしの僕でも
この有様が属人的な失態や組織の経営ミスではない
もっとマクロな構造に起因していることくらいわかっている。
僕の近況を気にかけてくれる人たちが
また一緒に仕事をしたいのに、と思ってくれていることも知っている。

根本无需道歉。
即便是对经济和经营一窍不通的我也明白,
这种状况并非个人的失误或组织的经营错误,
而是源于更宏观的结构性问题。
我也知道那些关心我近况的人们
都在想着"真想再一起工作啊"。

作品づくりを共にした人たちは戦友だ。
戦争を想起する比喩が慎重に忌避される現在でもあえてそう呼びたい。
分かち合った時間と厚意に感謝こそすれ恨みに思う理由はひとつもない。
そのすべてが過去となりひたすらに遠ざかってゆくばかりであろうことがただ、切ない。

一起创作作品的人们是战友。
即便在谨慎回避战争比喻的当下,我也要执意如此称呼。
对于共同分享的时光和善意,我只有感激,没有任何怨恨的理由。
只是,这一切都成为过去,不断远去,令人感到惆怅。

ありふれた感傷の洪水をものともせず
砂漠は翻訳家の足もとを粛々と侵してゆく。
砂漠で生き延びる術を知っているのは
砂漠に生まれついた者だけだ。

不顾这些平凡感伤的洪流
沙漠正悄然侵蚀着译者的脚下。
只有生来就在沙漠中的人
才知道如何在沙漠中生存。

「ちょっと悲観しすぎでは」
「仕事をしていれば良い時もあれば悪い時もあるでしょう」
「構造不況とはいえ大げさにもほどがある」
「自己憐憫もたいがいにしろ」

"是不是太悲观了"
"做工作总有好的时候也有坏的时候吧"
"虽说是结构性衰退,但也太夸张了"
"适可而止吧,别太自怜了"

液晶越しに誰かの声がする。
あるいはすべて自分なのかもしれない。

透过液晶屏传来某人的声音。
或许这一切都是我自己的声音也说不定。

いいだろう。
30年このかた不況から抜け出せぬまま少子高齢化だけを順調に進行させ人口の約18%を75歳以上が占めている現実と15年後には約35%を65歳以上が占めるであろう予測の狭間で出生率の低下とともに労働人口を減らし続けているこの国に神風が吹いて経済が上向いたとしよう。
そうして映画館では国内作品のシェアが急拡大し海外文学市場は一部の人気作家と時代を席巻する韓国文学を除き部数も印税も落ち込み続ける一方でNetflixやAmazonプライムを筆頭に群雄割拠するストリーミングサービスさらには無料のオンラインコンテンツまでもが生身の人間から有限の時間を奪い合うことに血道を上げているこの状況でケラリーノ・サンドロヴィッチが「もうチケ代上げたくない」と苦しい胸の内を吐露せずにはいられないほど上がり続けるチケット代に合わせて観客の年齢層も上がり続ける舞台業界が奇跡のV字回復を達成するなどという最盛期の梶原一騎ですら眉をひそめかねない展開を戯れに信じ込んでみるとしよう。

好吧。
就让我们假设,在这个30年来一直无法摆脱不景气,只有少子高龄化在顺利进行,75岁以上人口占比约18%,预计15年后65岁以上人口将占约35%,伴随着出生率下降而劳动人口持续减少的国家里,突然刮起神风,经济开始好转。
就让我们假设,在电影院国产作品份额急剧扩大,海外文学市场除了部分畅销作家和席卷时代的韩国文学外发行量和版税持续下滑,而以Netflix和Amazon prime为首的群雄割据的流媒体服务,甚至免费的在线内容都在争夺着活生生的人类有限的时间的情况下,在票价不断上涨以至于连Kera-Rino Sandrovitch都不得不吐露"不想再涨票价了"这样痛苦的心声,观众年龄层也随之不断上升的舞台业界,能够实现奇迹般的V形复苏——这样连全盛期的梶原一骑都会皱眉的剧情发展。

それでも、ひとつの翻訳の終わりは止められない。
かりそめの延命を得て
やがて翻訳そのものの終わりをも招来する。
もはや終わりの始まりですらない。
終わりの終わりに他ならない。
それほどまでに根源的な力学の話を、いまからする。

即便如此,一种翻译的终结也无法阻止。
获得暂时的延续,
最终也将招致翻译本身的终结。
这已经不是终结的开始。
而是终结的终结。
接下来要讲述的,是一个如此根本性的力学故事。

ひとつの翻訳の終わりを早めるべく、まずひとつの技術が加速した。
いうまでもなく機械翻訳である。

为了加速一种翻译的终结,首先是一项技术加速发展。
不用说,这就是机器翻译。

半世紀前、機械翻訳がまだルールベース翻訳と呼ばれていたころ、その存在を知る人は専門家だけだった。

半个世纪前,当机器翻译还被称为规则基础翻译的时候,只有专家才知道它的存在。

90年代後半、統計的機械翻訳(SMT)の登場が革命をもたらしてもなお、PCを持つ人自体がまだ限られていた世界は静かなままだった。

90年代后期,尽管统计机器翻译(SMT)的出现带来了革命性的变化,但在那个拥有个人电脑的人还很有限的世界里,一切依然平静。

2000年代前半、パソコンとインターネットの普及が全世界規模で進むと機械翻訳はwebページの自動翻訳を試みるようにはなったが、訳文の解読は依然として利用者の自助努力に付託されていた。

2000年代前期,随着个人电脑和互联网在全球范围内的普及,机器翻译开始尝试网页的自动翻译,但对译文的理解仍然需要依赖用户的自主努力。

2006年、Google翻訳が公式にサービスを開始。
機械翻訳の認知度は急激に高まり、Googleはわずか数年で対応言語を50以上にも増幅、程なくして大型ディスカウントショップで売られる格安製品に機械翻訳と思しき多言語仕様の取扱説明書が付いてくるようになった。
それでも、「Google翻訳みたい(笑)」は依然として「質の悪い翻訳」を揶揄する常套句であり続けていた。

2006年,Google翻译正式开始服务。
机器翻译的认知度急剧提高,Google在短短几年内就将支持的语言增加到50种以上,不久后,在大型折扣商店销售的廉价商品上开始附带疑似机器翻译的多语言说明书。
尽管如此,"像Google翻译一样(笑)"仍然是嘲讽"质量低劣的翻译"的常用语。

2014年、Google翻訳のニューラル機械翻訳(NMT)導入を転回点として機械翻訳は新たなフェーズに入る。

2014年,以Google翻译引入神经机器翻译(NMT)为转折点,机器翻译进入了新的阶段。

2017年にはドイツ発のDeepLが登場しそれまで市場を独占していたGoogle相手にめざましい競争力を発揮、訳文の自然さ、柔軟さの面でGoogleを凌駕し、ビジネスの現場はおろか学術の世界でも多用されるようになる。
英語をはじめとする様々な言語で書かれた論文の下読み、あるいは逆に自身が様々な言語で発信する際の添削といった用途が主であり、
とりわけ英語を第一言語としない研究者の国際競争力を飛躍的に高める補助ツールとして期待された。明治維新以来の永きにわたり不当な英語コンプレックスを抱かされてきた日本国民が僥倖に湧く姿を眺めながら明治維新以来の永きにわたり翻訳大国日本を支えてきた専門家たちが危機感を抱かされるのは正当なことに違いなかった。

2017年,来自德国的DeepL出现,对此前独占市场的Google展现出惊人的竞争力,在译文的自然度和灵活性方面超越了Google,不仅在商业领域,在学术界也开始被广泛使用。
主要用途是预读用各种语言写成的论文,或者反过来在用各种语言发表时进行润色,
特别是作为提升非英语母语研究者国际竞争力的辅助工具备受期待。看着自明治维新以来长期背负着不当的英语情结的日本国民为此欣喜若狂的同时,自明治维新以来长期支撑着翻译大国日本的专家们感到危机感,这无疑是合理的。

とはいえ、処理しきれない部分を巧妙にねじ曲げ意味が通るように改竄したり、あまつさえパラグラフを丸ごとカットして素知らぬふりを決め込んだりと暴挙に及ぶことも厭わないDeepLに重要な文書を丸投げするのはあまりにリスクが高く、「機械翻訳を使いこなすにはまず自身が相当の語学力を身につけるべし」という人々の良識は揺るがなかった。
「Googleは不器用だけど真面目な学生、DeepLは要領はいいけど不真面目な学生」と言って笑う者もいた。
機械翻訳の進化がもはや門外漢の想像の及ぶ次元を超えていることは明らかだったが、文学作品や漫画のような機微を問われる言葉の翻訳をも独力で精確に完遂できるほどに進化しきった機械翻訳の姿とそれがもたらす新たな世界秩序を実感とともに思い描ける人もまた決して多くはなかった。

然而,将重要文件完全交给DeepL处理风险太大,因为它不惜采取一些激进手段,比如巧妙地扭曲无法处理的部分使其通顺,甚至完全删除整个段落并装作若无其事。"要想熟练使用机器翻译,首先要自己具备相当的语言能力"这一常识始终未被动摇。
有人笑称"Google是笨拙但认真的学生,DeepL是机灵但不认真的学生"。
虽然机器翻译的进化显然已经超出了外行人想象的维度,但能够切实感受到机器翻译已进化到能够独立精确完成文学作品和漫画等需要把握细微之处的文字翻译,并能够想象它将带来的新世界秩序的人,也并不多。

2020年代を迎えるころになると、文芸畑の人々もそれまで薄目で盗み見てきた問いと正面から向き合わざるを得なくなった。

到了2020年代,文艺领域的人们也不得不正面面对此前一直眯着眼偷瞄的问题。

ある翻訳家は「いつかは奪われるんだろうけど、自分達世代は逃げ切れると思うから」と後ろを向いて希望を述べた。
ある編集者は「でも、ぜひこの人に!と思わなければ依頼しませんから」と胸を張って矜恃を示した。
ある読者は「やっぱり、この作家にはこの訳者じゃないと!って思って買いますから」と両手を握って支援を誓った。

有位翻译家背对着说"虽然总有一天会被夺走,但我觉得我们这一代应该能逃过去",表达着希望。
有位编辑挺起胸膛说"但是,如果不是觉得'一定要这个人来做!'的话就不会委托",展示着自己的矜持。
有位读者紧握双手说"毕竟,我买书时会想'这个作家非这个译者不可!'",发誓支持。

誰もがなにかを信じようとしていた。
大切にしてきたものを守ろうとしていた。
そうしてそのぶんだけ不安そうだった。

每个人都在试图相信着什么。
都在试图守护着珍视的东西。
正因如此才显得那么不安。

僕にはすこしも不安などなかった。
なにもかも信じていなかったから。

我却丝毫不感到不安。
因为我什么都不相信。

あるとき、連載の依頼が舞い込んだ。
今はあまり書きたいこともない、なにかお題をいただけませんかとお願いすると「人間の翻訳・通訳ならではのよさ、魅力」について書いてほしいという。
僕はだいたいこんなふうに返信した。

有一次,收到了连载的委托。
当我说现在没什么想写的,能否给我一个题目时,对方说希望我写写"人工翻译和口译独有的优点和魅力"。
我大致是这样回复的。

私は、すくなくとも通訳翻訳という分野においては「人間の人間による人間のための仕事のかけがえのなさ」を信じておりません。
大方の人間はコスト削減に魂を売り渡す。
それが、私たちの選んでしまったグローバル資本主義であり市場原理主義のもたらす結末だと考えています。
私はたまたま舞台芸術という機械化の波が及ぶのがいちばん遅いであろう分野を専門にしているので、
いくらかの猶予をもって業界の滅亡を待っているに過ぎません。

我至少在口译翻译这个领域,并不相信"人类为人类创造的工作的无可替代性"。
大多数人都会为了削减成本而出卖灵魂。
这就是我们选择的全球资本主义和市场原理主义带来的结局。
我恰好专注于舞台艺术这个可能是最后才会被机械化浪潮波及的领域,
不过是带着一些缓冲期在等待行业的灭亡罢了。

もちろん未来のことは人間には知りようがありません。
どのような揺り戻しが訪れるかもわかりません。
しかしながら、そのような、後ろ向きな気持ちを包み隠さず綴るようなもの、すなわち

当然,人类无法预知未来。
也不知道会有什么样的反弹。
然而,只能写出这样毫不掩饰消极情绪的内容,也就是

「この時代に通訳を目指すことに意味があるのか」
「翻訳という仕事につきまとう虚しさ」

"在这个时代追求成为口译员是否有意义"
"翻译这份工作所伴随的虚无感"

といったテーマでなければ、今の私には書けそうにありません。

这样的主题之外,现在的我似乎写不出其他内容。

ある編集者へ宛てた、ある日のメールより

——摘自某日致某位编辑的邮件

連載は始まらなかった。

连载没有开始。

「極論に走り過ぎ」
「多忙な翻訳者もたくさんいる」
「むしろ需要が拡大している分野もある」
「人間の仕事の可能性を描くことはまだできるはずだ」

"太过极端了"
"还有很多忙碌的翻译者"
"甚至有些领域需求还在扩大"
"应该还能描绘人类工作的可能性才对"

そう翻意を促す人々もいた。
そのいずれも拒絶した。
かれらの指摘が間違っていたからではない。
止まない豪雨に2階まで沈められながら屋根へよじ登りここはまだ安全だと喉を枯らすにはいささか疲れ過ぎているだけだ。
それほどまでに絶望的なパラダイムシフトの話を、いまからする。

也有人这样劝我改变想法。
我拒绝了这一切。
不是因为他们的指出有误。
只是在不停的暴雨中,当二楼都被淹没时,我已经太疲惫了,疲惫到无法再爬上屋顶嘶喊着"这里还是安全的"。
接下来要讲述的,是一个如此绝望的范式转变的故事。

2024年末現在、
「機械翻訳は人間から仕事を奪うか」を議論する声は
以前ほど熱を帯びていないようにもみえる。
答えは出たと感じている人が増えたからだろうか。
あるいはそれは信仰の問題に移行したのかもしれない。

截至2024年末,
关于"机器翻译是否会夺走人类的工作"的讨论声
似乎已不如从前热烈。
是因为觉得答案已经明了的人增多了吗?
或许这已经转变成了一个信仰问题。

奪われないと信じることを選んだ人たちは
奪われないという結論から出発して根拠を数え上げる。
ある人は現在の仕事量を誇示し
またある人は機械との協働を語りながら。
ある人は世界市場の拡大を謳い
またある人はポストエディットの蔓延を呪いながら。

选择相信工作不会被夺走的人们
从"不会被夺走"这个结论出发,开始列举理由。
有人炫耀着当前的工作量,
也有人谈论着与机器的协作。
有人歌颂着世界市场的扩大,
也有人诅咒着后期编辑工作的蔓延。

人間の数だけ人間があり
現実の数だけ現実がある
そのような場所を
あるいはそのとらえ難さをこそ
人は「世界」と呼ぶのだから

有多少人就有多少种人性,
有多少现实就有多少种真相,
正是这样的地方,
或者说正是这种难以捉摸的特质,
才被人们称作"世界"。

そうしてその反対の極では
答えの出ている問いに執着していられる人は多くない。
ある人はそれを諦めと呼び、
またある人は切替と呼び、
そうしているあいだにも
翻訳の依頼は加速度的に減り続けている。

而在对立的另一极,
已经没有多少人还在执着于已有答案的问题。
有人称之为放弃,
有人称之为转变,
就在此时此刻,
翻译的委托仍在加速减少。

答えを出したようにみえるのは言うまでもなく、
2023年初頭のChatGPT公開を皮切りとして世に放たれた生成AI翻訳である。

不用说,看似给出答案的,
是从2023年初ChatGPT公开为开端而问世的生成式AI翻译。

機械翻訳の進歩は多くの翻訳家の理解をとうに超えていたが
生成AI翻訳の普及は少なからぬ翻訳家に「それ」がほんとうの終わりを運んできたと実感させるに十分だった。

机器翻译的进步早已超出了许多翻译家的理解范围,
但生成式AI翻译的普及足以让不少翻译家切实感受到"它"带来了真正的终结。

では、生成AIの登場で機械翻訳はついに「文学作品や漫画のような機微を問われる言葉の翻訳をも独力で精確に完遂できるほどに進化しきった」のだろうか。

那么,随着生成式AI的出现,机器翻译是否终于"进化到能够独立精确完成文学作品和漫画等需要把握细微之处的文字翻译"的程度了呢?

むろんそんな事実はない。

当然没有这样的事实。

自然言語処理に特化して設計され、自然さとしなやかさにおいてDeepLの仕事をも凌駕する訳文を一瞬で吐き出すChatGPTであっても、原文と付き合わせれば間違いはある。文が抜けることもままある。修飾語の勝手な省略や時制の単純化などに至っては看過できないほどの放埒ぶりだ。文体や文末形式の不統一による違和感は論を俟たず、その傾向はとりわけ日本語と英語のように構造の隔たった言語間において、長文になればなるほど顕著である。
現状の生成AI翻訳はどうみても完璧というには程遠く、依然として人間の翻訳を終わらせるだけの力をもたない。

即便是专门为自然语言处理而设计,能够瞬间生成在自然度和流畅度上超越DeepL的译文的ChatGPT,当与原文对照时也会出现错误。句子遗漏的情况也时有发生。至于随意省略修饰语和简化时态等问题,更是到了不容忽视的放纵程度。文体和句末形式的不统一带来的违和感更是不言而喻,这种倾向在日语和英语这样结构差异巨大的语言之间尤为明显,而且文章越长越突出。
目前的生成式AI翻译无论如何都离完美还很遥远,仍然没有终结人工翻译的能力。

それではなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。
それでもなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。

那么为什么,人工翻译还是会走向终结呢?
即便如此,为什么人工翻译还是会走向终结呢?

ほかでもなく、人間の側が翻訳に対する要求水準を下げ始めたからである。

无他,正是因为人类自身开始降低对翻译的要求标准。

「(ちょっと変だけど)これでもわかるし」
「(間違いもあったけど)だいたい合ってるし」
「(この程度の修正でなんとかなるなら)わざわざ専門家に発注しなくても」

"(虽然有点奇怪)但这样也能看懂"
"(虽然有错误)但大致正确"
"(如果这种程度的修改就能搞定)就不用特意委托专家了"

機械の意図を汲みにゆくことで
機械の精度に合わせて降りてゆくことで
人間が人間を終わらせ始めている。
貧困に煽られたコストカットの誘惑と
タイムパフォーマンスの強迫がそれを後押しする。
あらゆる意味において展開される貧困の前に
機械翻訳の進化はもはや副次的なファクターに過ぎない。

通过揣摩机器的意图
通过向下迎合机器的精度
人类开始终结人类自身。
在贫困驱使下的成本削减诱惑
和时间效率的强迫症推动着这一切。
在各种意义上展开的贫困面前
机器翻译的进化已经只是一个次要因素。

人間の翻訳を終わらせるのに、完璧な機械などもとより必要なかったのだ。

要终结人工翻译,从一开始就不需要完美的机器。

職人が手ずから仕込んだ豆腐の濃厚な味わいを知っているからといって
帰路にあるスーパーを素通りし3駅離れた豆腐屋へ寄り道する金と時間のある者がいまの我々のうちにどれだけあるだろう。
工場で作られた豆腐もまたそれなりに食べられることを知ってしまっているのに。
工場で作られた豆腐しか知らない人間が遠からず「それ」をこそ「豆腐」と呼び表すようになってゆくことまでも予感しているのに。

即便知道手工豆腐师傅亲手制作的豆腐有着浓郁的味道,
在当今的我们之中,又有多少人有钱和时间能在回家路上跳过超市,特意绕道去三站地外的豆腐店呢?
况且我们已经知道工厂制作的豆腐也算能吃。
甚至已经预感到,那些只知道工厂豆腐的人不久后就会把"那个"称作"豆腐"。

要求水準の低下は誘惑との戦いや強迫への対処といった痛みの中でぎりぎりの交渉を繰り返しながらすこしずつ進行するとはかぎらない。
責任ともリスクとも切実さとも無縁の匿名かつインスタントな空間で
「それ」は果てしなく野放図だ。

要求标准的降低,不一定是在与诱惑抗争和应对强迫的痛苦中,反复进行着极限谈判而逐渐进行的。
在那个与责任、风险和切实性都无关的匿名且即时的空间里,
"它"是无限放纵的。

たとえばYoutubeに切り抜かれた動画のナレーション字幕がぎごちなくとも
違和感に立ち止まる人は稀であり
TikTokで流れてきた西洋人と思しき誰かの字幕が軽妙な関西弁であろうとも
そのズレは30秒という時間を「おもしろ」で刺激してのち忘れ去られる。

比如说,即便Youtube上剪辑视频的旁白字幕很生硬,
也很少有人会因为违和感而驻足,
即便TikTok上疑似西方人的字幕用着轻快的关西方言,
这种错位感也只会在30秒的时间里以"有趣"的方式刺激一下就被遗忘。

感じにくくなった人間が忘れやすくなるのは必然だ。
翻訳というものがかつて生身の専門家や勉強家たちの手によって一定の質を保たれていたことも思い出されなくなり、やがて知る由もなくなる。
いわんやインターネットが単なる仮想の空間を超え
肉体を伴う空間との相互作用を強めてゆく現在において
バーチャルにおける鈍化はリアルにおける鈍化を不可避的にもたらす。

变得不敏感的人类更容易遗忘,这是必然的。
人们也会逐渐忘记翻译曾经是由活生生的专家和研究者们用心维持着一定的质量,最终甚至无从得知这一点。
更何况在互联网已经超越单纯的虚拟空间,
与现实空间的互动日益加强的当下,
虚拟世界的麻木必然会带来现实世界的麻木。

人間とは、慣れてゆく生き物である。

人类,是会习惯的生物。

とはいえこの世界を成り立たせるものすべての水準がネット空間に等しく均されるまでにはまだいささか時間がある(という希望を国内外の数多の選挙戦の有り様を知っていながら捨てずにいることを選択する)とすれば、
要求水準が低下の一途を辿り、たとえそれまで人間が行なっていた作業の8〜9割を機械翻訳が担うことになったとしても、責任とリスクと切実さの度合いに応じて残る1〜2割に目を通し手を下す人間の需要はいましばらく維持されるだろう。

不过,如果说在这个世界上所有的标准都被网络空间均质化之前还有一些时间(尽管知道国内外众多选举的现状,我还是选择不放弃这样的希望),
那么即便要求标准持续下降,即便此前由人类完成的工作有八九成都由机器翻译承担,根据责任、风险和紧迫程度的不同,对于剩下的一两成内容进行审阅和处理的人类需求,应该还能维持一段时间。

ましてChatGPTは

更何况ChatGPT

「私は大量のデータからパターンを学習して、広く受け入れられる言語の使用法や表現を選ぶことに特化しています。そのため、私が生成する文章は、**一般的に「自然で理解しやすい」**という特徴がありますが、個性的なスタイルや意図的な難解さが求められる場面では、物足りなく感じられることがあります」

"我是通过从大量数据中学习模式,专注于选择被广泛接受的语言用法和表达方式。因此,我生成的文章具有**通常'自然且易于理解'**的特点,但在需要个性化风格或有意为之的晦涩表达的场合,可能会显得不够充分。"

ある日のChatGPTとの対話より

——摘自某日与ChatGPT的对话

と自ら証言しているとおり、最大公約数的な自然さ、読みやすさに配慮して訳文を生成するよう調整されている。
このことは生成AI翻訳が(少なくともChatGPTに代表される自然言語処理に特化したそれが)、情報に還元されない言表行為とその産物、すなわちひとつひとつの語の選択や文体それ自体をも価値として発せられるテクストのアイデンティティを真っ向から殺しにくる存在であることを示唆している。

正如它自己所证实的那样,它被调整为生成考虑到最大公约数式的自然性和易读性的译文。
这暗示着生成式AI翻译(至少是以ChatGPT为代表的专注于自然语言处理的那类)是一种正面摧毁那些无法还原为信息的言语行为及其产物,即将每一个词的选择和文体本身也作为价值来表达的文本身份的存在。

では、人間の翻訳を延命させるのは、たとえば本読みたちだろうか。

那么,能够延续人工翻译生命的,会是那些读书人吗?

大好きな作家たち、尊敬する書き手たちの筆になるものは相応の訳者に恵まれてほしい、特定の語学を能くするのみならずそこに連なる文化、歴史、社会風土についての深い造詣と高い見識をもって原著者の作風を、文体を、修辞を、語の用法を微に入り細を穿ちあますところなく伝えてほしいと心から望んでやまない読み手たちがお茶の時間にケーキを控え、晩酌のビールを発泡酒にもちかえたお金で人間の翻訳を買い支えるのだろうか。
機械が抽出した最適解を人間の自由な創作に対する冒涜として言下に否定するのだろうか。
人間が生み出した言葉は人間をとおして生まれなおさねばならぬとシュプレヒコールをあげるのだろうか。
そうして人間の人間による人間のための翻訳を、その身体性を信じ讃えるのだろうか。
いつの日も信じる力だけは最悪の未来を回避して歩みつづけるための杖なのだろうか。

那些由衷希望自己喜爱的作家、敬仰的作者的作品能够遇到相应的译者,希望译者不仅精通特定语言,还对相关的文化、历史、社会风土有着深刻的造诣和高远的见识,能够细致入微地传达原作者的风格、文体、修辞和用语的读者们,会通过在茶点时间放弃蛋糕,把晚上的啤酒换成发泡酒省下的钱来支持人工翻译吗?
他们会立即否定机器提取的最优解,认为这是对人类自由创作的亵渎吗?
他们会高喊"人类创造的语言必须通过人类重生"的口号吗?
他们会因此相信并赞美人类为人类创造的人类翻译及其身体性吗?
难道说,信念的力量永远都是为了避免最坏的未来而继续前行的拐杖吗?

わからない。
今ここにない景色に目をこらしても確かなことはなにひとつ見えない。
だから今の僕があたりを見回して確からしく思えることをふたつだけ書く。

不知道。
即便凝视着此时此地不存在的景象,也看不到任何确定的事物。
所以我只写下现在环顾四周时觉得可能确实的两件事。

ひとつ。
人間の仕事を愛し待ち望む「善き読者」はまだ多い。

其一。
热爱并期待人工翻译的"善良读者"还有很多。

ふたつ。
かれらはすでに、裏切られはじめている。
かれら自身が信じ支えようとしてきた者たちによって。

其二。
他们已经开始被背叛。
被他们自己所信任和支持的人背叛。

文学を機械にかける翻訳者は、すでに存在する。

将文学交给机器的翻译者,已经存在。

遠き他者の言葉に宿る神聖さに目を瞠らず
織り込められた呪術性に耳を傾けず
機械に情報として処理させた文字列を整え世に送り出す訳者たちの実在は
この世にありとある善き読者たちの願いとも信仰とも等しく無縁である。

对远方他者言语中蕴含的神圣性视而不见,
对编织其中的咒术性充耳不闻,
只是整理机器作为信息处理后的文字串并发布于世的译者们的存在,
与这世上所有善良读者的愿望和信仰都毫无关联。

「それ」が
人間の身体から生まれ人間の身体を通って出てきたのか
人間の身体から生まれ機械の頭脳を経由して人間の身体から出てきたのか
かれらにはわかりえないのだから。

"它"是
从人类身体中诞生并通过人类身体产出,
还是从人类身体中诞生经由机器大脑再从人类身体中产出,
他们根本无从得知。

むろんこれは告発ではない。
誰にもそのような独善に及ぶ権利はない。

当然,这不是控诉。
没有人有资格做出这种独断。

あるいは「それ」はすでにして僕かもしれない。
算盤を捨て電卓を使い
覚束なくなった漢字を変換に任せ
誦じていた番号すべてを携帯電話に託すその先に
「それ」はいつでもあったのだから。

或许"它"已经是我自己了。
放弃算盘使用计算器,
将记不清的汉字交给输入法,
把曾经背诵的号码全都托付给手机,
在这些之后,
"它"一直都在那里。

もしかして
「それ」は終わりなどもたらさないのだろうか
「それ」が極まった暁には
福音がもたらされることすらあるのだろうか

也许
"它"并不会带来终结
当"它"达到极致之时
甚至会带来福音?

人と機械のブラックボックスで増産され続ける訳文を
善き読者たちが歓待する。
いまやAIの監督者と化した翻訳者たちは
研鑽を積み修羅場を踏んで鍛えあげた刃をふるい
剪定に摘心、ときに株分けをすれば事足りる。

在人类和机器的黑箱中不断增产的译文
被善良的读者们欢迎接纳。
如今已化身为AI监督者的翻译者们
挥舞着经过磨练和历练而锻造的利刃
只需进行修剪、去芯,偶尔分株就足够了。

そんな未来が遠からず、到来するとしたら。
そんな未来がいま、ここにおいて実現するとしたら。

如果这样的未来不久就会到来。
如果这样的未来就在此时此地实现。

その刹那、ひとつのアポリアが孵化する。

在那一刻,一个悖论孵化了。

もしかしてそんな「未来」は
いま、ここにおいてのみ顕現する
いたずらな現在に他ならないのではないか。

也许这样的"未来"
不过是在此时此地显现的
一个恶作剧般的现在。

生成AIが吐き出した初期作業のゆらぎと綻びを人間が見極め
しかるべく修正を加えて完成させる。
高次の力を備えた翻訳者の存在を前提としたこのモデルは
高次の力を備えた翻訳者の喪失を想定していない。
膨大な時間と労力と資金を傾けて外国語を学ぶ人間が
苦学を重ねて留学費用を捻出し
本を読み人と交わって知性と感性を磨き上げたその先に
AIの間違い探しに明け暮れる毎日が待っているとしたら
果たして人はいつまで外国語に身を砕くだろうか。
未熟な機械の尻拭いをモチベーションとして
明日の翻訳者の母数はいつまで担保されうるだろうか。
モチベーションの低下が外国語離れを引き起こせば
高次の翻訳者は足らなくなり
高次の翻訳者が足らなくなれば
AIを監督する者が足らなくなり、
AIを監督する者が足らなくなれば
AIがAIを監督するようになり、
AIがAIを監督するようになれば
学習者の意欲はさらに低下し
学習者の意欲がさらに低下すれば
高次の翻訳者はいなくなり
高次の翻訳者がいなくなれば
そこはもう見わたすかぎりAIの世界である。

人类甄别生成AI吐出的初期工作中的波动和破绽,
适当地加以修正使其完成。
这个以高水平翻译者的存在为前提的模式
并未设想到高水平翻译者的消失。
如果投入大量时间、精力和资金学习外语的人,
辛苦积攒留学费用,
通过阅读和与人交流来磨练智性与感性,
等待他们的却是整日寻找AI错误的生活,
人们还会继续投身外语学习到何时呢?
以修正不成熟机器的工作为动力,
未来翻译者的基数还能维持多久呢?
如果动力下降导致人们远离外语,
高水平翻译者就会不足,
高水平翻译者不足,
监督AI的人就会不足,
监督AI的人不足,
就会变成AI监督AI,
当AI开始监督AI,
学习者的积极性会进一步下降,
学习者的积极性进一步下降,
高水平翻译者就会消失,
高水平翻译者消失,
那里就只剩下一个尽是AI的世界了。

人間がAIを補完するモデルとはとりもなおさず
AIが人間を駆逐するモデルに他ならないのだろうか。
過去の蓄積に依って立つ「いま、ここ」の黄金比を臨界点として
翻訳者はすみやかに絶滅へと向かうのだろうか。

人类补完AI的模式
难道不正是AI驱逐人类的模式吗?
以依靠过去积累的"此时此地"的黄金分割点为临界点,
翻译者是否将迅速走向灭绝?

「考え過ぎだ」
「翻訳者は絶滅しない。ふるいにかけられるのだ」
「最後まで立っていた者だけが新世界の翻訳者にふさわしい」

"想得太多了"
"翻译者不会灭绝,只是被筛选罢了"
"只有坚持到最后的人才配得上成为新世界的翻译者"

そう言った翻訳者がいた。
むろんひとりではない。
なるほどそうかもしれない。

有翻译者这样说。
当然不止一个。
或许确实如此。

技術革新が死に至る病を蔵してなお前進するのは今に始まったことではない
和紙が、漆器が、友禅が消滅の危機に瀕していると噂される今このときも
工場の機械が止まることはないだろう
そうして吹き荒れる機械化の嵐で凡百な翻訳者たちが淘汰され
残った者たちが至高の翻訳者として天上人の如く君臨するのかもしれない。

技术革新虽然蕴含着致命的疾病却仍在前进,这并非始于今日
即便在和纸、漆器、友禅被传言面临消失危机的此时此刻
工厂的机器也不会停止
就这样在肆虐的机械化风暴中,平庸的翻译者们被淘汰
留下的人或许会如同天上人一般作为至高无上的翻译者君临天下。

そのとき、もはや流動化の望めなくなった翻訳界で
既得権益化した極小のパイにありつくべく
自らに厳しい修行を課す若くて強い魂が
はたしてどれだけ現れ出ててくれるのだろう。
それどころか徒弟制度による業界の私物化まで
過去の亡霊よろしく復活するかもしれない。
そうして結局のところ
大方の翻訳が機械に「取って代わられる」未来図は
ほとんど書き換えられないのかもしれない。

在那时,在已经无法期待流动性的翻译界中
为了争夺已成既得利益的微小蛋糕
究竟会有多少年轻而强大的灵魂
愿意给自己施加严格的修行呢?
甚至可能连徒弟制度导致的行业私有化
都会像过去的幽灵一样复活。
如此这般
大部分翻译被机器"取而代之"的未来图景
或许几乎无法改写。

わからない。
今ここにいない誰かの未来を漠然と推し量って語ることはできない。
だから今ここにいる僕自身を省みて語れることを語る。

不知道。
无法漫无边际地推测并谈论不在此时此地的某人的未来。
所以我只谈论反省此时此地的自己能够谈论的事。

「取って代わられる」未来は、僕にとって過去である。
「取って代わられた」過去は、僕にとって現在である。
「取って代わられている」現在は、僕にとって英語帝国主義である。

"被取代"的未来,对我而言是过去。
"已被取代"的过去,对我而言是现在。
"正被取代"的现在,对我而言是英语帝国主义。

「それ」がいつだったのか
誰も年表で指し示すことはできない。
けれど英語が「世界言語」としての覇権を不動のものとして以降
「グローバル・コミュニケーション」の名の下に
商業からアカデミズムに至るまでさまざまな分野における国際交流、
情報発信の大部分を英語が占めるようになった。

"它"是在什么时候
没有人能在年表上指出。
但自从英语确立了作为"世界语言"的霸权地位以来
在"全球交流"的名义下
从商业到学术等各个领域的国际交流、
信息传播的大部分都被英语占据。

アートの世界も例外ではない。
むしろダンスや音楽をはじめとした
言語を介さずとも作品を提示し得る分野のアーティストには、
世界市場を視野に入れて積極的に英語を磨き、
企画段階から稽古、本番に至るまで全て英語で通す人たちが激増した。

艺术界也不例外。
反而是以舞蹈和音乐为首的
即使不通过语言也能呈现作品的领域的艺术家们,
为了面向世界市场而积极磨练英语,
从企划阶段到排练、正式演出都全程使用英语的人急剧增加。

そうしてフランス語やイタリア語を専門とする僕のような人間の仕事は
その多くがみるみる英語に取って代わられていった。
フランス人プロデューサーが英語でドラフトを送ってきたとき
フランス人研究者が英語で劇評を公開したとき
イタリア人演出家が英語で演出ノートを寄稿したとき
その陰でいつも僕たちが失職していた。

就这样,像我这样专精于法语和意大利语的人的工作
大部分都眼看着被英语取而代之。
当法国制片人用英语发来草稿时
当法国研究者用英语发表剧评时
当意大利导演用英语投稿导演笔记时
在这些背后,我们总是在失去工作。

けれどもそんな僕たちの苦しみは
新しい帝国の言語文化に隷属する人々に届いてはいないようにみえた。
フランス語ネイティヴの依頼を断る英語翻訳者の姿は
僕の目には入らなかった
イタリア語ネイティヴの依頼を断る英語通訳者の噂は
僕の耳には届かなかった

然而我们这样的痛苦
似乎并未传达给那些臣服于新帝国语言文化的人们。
拒绝法语母语者委托的英语翻译者的身影
我未曾目睹
拒绝意大利语母语者委托的英语口译者的传闻
我未曾耳闻

言語とはそれ自体ひとつのシステムであり
それぞれに人間の発想や論理の礎を成す固有の体系であり
英語がどれほど豊かな言語であろうとも
英語というシステムに則って生み出される限りにおいて
その作品は英語の軛を免れない。
主語の立て方ひとつ、受動態と能動態の使い分けひとつとっても
英語的な発想に支配されてしまう。
英語のみに依存した「交流」がどれほど活発に見えても
創作はひそやかに痩せ衰えてゆく

语言本身就是一个系统
各自都是构成人类思维和逻辑基础的独特体系
无论英语多么丰富
只要是按照英语这个系统产生的
作品就无法摆脱英语的枷锁。
就算只是主语的设置方式,被动语态和主动语态的使用
也会被英语式的思维所支配。
即便仅依赖英语的"交流"看似多么活跃
创作也会悄然消瘦衰败

それしきの見識を備えた人間はきっと
世界最多の分母を誇る英語話者の中にはいくらでもいて
けれど英語一強の春に踊るかれらの口から
ほんとうの多様さをめぐる問いが発せられることは多くなく
アリバイづくりのポーズ以上に昇華されることはさらに稀だった。
そうして僕たちは英語に石もて追われるようにして
日々の糧を着実にすり減らせていったのだった。

拥有这种见识的人
在自诩拥有世界最多基数的英语使用者中肯定不在少数
但在英语独大的春天里翩翩起舞的他们口中
很少发出关于真正多样性的质问
更罕见有超越制造不在场证明的姿态的升华。
就这样我们如同被英语用石头驱赶一般
日常的口粮也在稳步减少。

むろん英語が悪いのではない。
英語それ自体が独立した人格を備えていない以上
英語に憑いてまわる覇権と暴力のすべては
それを行使してきた人間たちの罪にして咎である。

当然,这不是英语的错。
既然英语本身并不具备独立的人格
所有附着于英语的霸权和暴力
都是那些行使它的人们的罪过。

そうして老いた帝国の言葉を話し継ぐ者として僕は
フランスがかつて数百年の長きにわたり
世界中で目も眩むほどの過ちに手を染めていたことを知っている。
山を越え海をわたり土足で分け入った先に三色旗をねじ込み
肉体と精神の尊厳を踏みにじり財産と生命を奪い取り文化と伝統を破壊して
今からおよそ百年前の地球の実に9%強にも及ぶ地表を
共和国領と呼んで憚らなかった時代を学んでいる。
フランス語が多文化主義へのパスポートの如く語られるとき
その旅券から噴き出す血飛沫の音を聴いている。
フランス語圏文学の未来が称揚されるとき
芽を摘まれてきた数多の言語にありえたはずの現在を夢想する。
人々が不可逆に喪われた音で愛し合う大陸を、傷つけ合う島々を幻視する。

作为继承着这个老帝国语言的人,我
知道法国曾在数百年的漫长岁月里
在世界各地犯下令人目眩的过错。
翻山越海,穿着皮鞋闯入后插上三色旗
践踏肉体与精神的尊严,掠夺财产与生命,摧毁文化与传统
对于约一百年前地球表面实际上超过9%的土地
毫不忌讳地称之为共和国领地的时代,我一直在学习。
当法语被说成是通向多元文化主义的通行证时
我听见那护照中喷溅而出的血滴之声。
当法语区文学的未来被颂扬时
我梦想着那些被扼杀的诸多语言本应有的现在。
我幻视着人们用那些不可逆转地失落的声音相爱的大陆,互相伤害的岛屿。

むろん誰かの痛みを肩代わりしてカタルシスに耽るのは退廃である。

当然,替代他人的痛苦来沉溺于净化是一种堕落。

詩人にしてマルティニックの知事を務めたエメ・セゼールは
自分がフランス語に習熟したのは抵抗と回復のためである、と
国民議会で彼を愚弄した白人議員に向かい敢然と言い放った。

身为诗人又担任马提尼克行政长官的艾梅·塞泽尔
对着在国民议会上嘲弄他的白人议员
毅然说道:自己精通法语是为了抵抗和恢复。

セネガル出身の作家ムブガル・サールは
フランス最高の文学賞であるゴンクールを史上最年少、
ならびにサハラ以南の出身者として初めて受賞した直後の会見で
すべてのフランス語話者に宛てて、弛まず読み、恐れず書けと激励した。

来自塞内加尔的作家姆布加尔·萨尔
作为史上最年轻且首位撒哈拉以南非洲出身的作家
获得法国最高文学奖龚古尔奖后的记者会上
向所有法语使用者发出号召:不懈地阅读,无畏地写作。

カメルーン出身のフェミナ賞作家レオノーラ・ミアノは
自身にフランス語教育を受けさせた両親について
教科書を埋め尽くし図書館の棚を満たしていた西欧の知について
パリを離れカメルーンを避けて行き着いたトーゴで今も考え続けながら
アフリカの地に人知れず層を成す女達の言葉を復権させようと試みている。

来自喀麦隆的费米娜奖作家莱奥诺拉·米亚诺
至今仍在离开巴黎避开喀麦隆而抵达的多哥
思考着让她接受法语教育的父母
思考着充斥教科书和图书馆书架的西方知识
试图让非洲大地上默默成层的女性们的语言复权。

だからもういいのかもしれない
そろそろ機械はやってくるべきなのかもしれない
そろそろ機械がやってきてくれるのかもしれない
暴力を終わらせるためではなく
暴力を終わらせるものとして
そうして僕たちのまだ知らないいくつもの
新しい暴力が粛々と始まるのかもしれない

所以或许就这样也好
或许机器该来了
或许机器就要来了
不是为了终结暴力
而是作为终结暴力的存在
就这样我们尚未知晓的
诸多新的暴力可能会悄然开始

それほどまでにやるせない夢の話を、最後にする

最后,讲一个如此令人无奈的梦的故事

大航海時代の幕開けに産声を上げた資本主義が数百年の長きをかけ
嘘と搾取と弾圧と殺戮をもって植民地経済を爛熟させる過程において
時代とともに担い手を変えながら確立させてきた言語帝国主義を

在大航海时代开幕时诞生的资本主义经过数百年
用谎言、剥削、压迫和杀戮使殖民地经济走向腐熟的过程中
随着时代更替着执行者而确立的语言帝国主义

21世紀に果てしなく膨張を続けるグローバル資本主義が収奪の対象を拡大し
文化の均質化や生産性-コストカット至上主義を超加速させる過程において
飛躍的な進歩を遂げた機械翻訳が相対化する

在21世纪无止境扩张的全球资本主义扩大掠夺对象
加速推进文化均质化和生产力-成本削减至上主义的过程中
取得飞跃性进步的机器翻译将其相对化

デジタル空間に横溢する情報を呑み込み肥大し続けるAIが
英語の圧倒的なデータ量を奇貨として英語自身の支配力を解体し
やがて歴代の支配者たちの言語をも次々に解体してゆく

吞噬着数字空间中泛滥的信息而不断膨胀的AI
将英语压倒性的数据量作为奇货来解构英语本身的支配力
最终将历代统治者的语言也逐一解构

いつの日か
1割の監督者に引導を渡した機械翻訳が
この世の言語という言語の
体系という体系を
文化という文化を
文脈という文脈を
遍く解析し尽くす時代が訪れたとしたら

假如有朝一日
机器翻译向着仅剩的一成监督者告别
将这世上的语言之语言
体系之体系
文化之文化
语境之语境
尽数解析殆尽的时代来临

この世の人間という人間が口にする
第一言語という第一言語を
地域語という地域語を
符丁という符丁を
悉く翻訳し尽くす時代が訪れたとしたら

假如有朝一日
这世上的人类之人类所言说的
母语之母语
方言之方言
暗语之暗语
尽皆翻译殆尽的时代来临

類まれなる言葉を話す人も
ありふれた言葉を話す人も
誰もが自由に自分の言葉で発信し
誰もが自由に自分の言葉で受信し
そうして誰も誰かの言葉へと踏み込んでゆくことなく
自在なやりとりに安んじる時代が訪れたとしたら

无论是说着罕见语言的人
还是说着普通语言的人
人人都能自由地用自己的语言发声
人人都能自由地用自己的语言接收
就这样无需踏入他人的语言
便能安然自在地交流的时代来临

そのとき
私の向こうに誰かいるのだろうか
そのとき
誰かの向こうに私はいるのだろうか
あるいは誰もが誰もいない場所へ向けて語ることが
ようやく手にした自由と平和の成れの果てだろうか

那时
在我的彼岸是否还有某个人
那时
在某个人的彼岸是否还有我
抑或是每个人都对着无人之处言说
才是终获自由与和平的归宿

それとも
やむことのないこだまに倦んで
踏み出そうとする命が
いつか再び生まれるだろうか
自己で満ちた孤独の無辺を後にし
他者に満ちる差異の無窮を目指す魂が
いつか再び育つだろうか

抑或是
厌倦了无尽回响
想要迈步向前的生命
会否有朝一日重生
将充斥着自我的无边孤独抛在身后
追寻着充满他者的无穷差异的灵魂
会否有朝一日重新成长

そうして
だれかの言葉が
わたしという器を鳴らすとき

于是
当某个人的话语
敲响名为我的容器之时

そうして
わたしの言葉が
だれかという器を揺さぶるとき

于是
当我的话语
震撼名为某个人的容器之时

わたしのなかにわたしが興り
だれかのなかにだれかが興る

我的深处唤醒我
其的深处唤醒其

あどけない夢の話である

这不过是一个纯真的梦啊









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对话次数共3次。